Humanities and Social Sciences Researchers

心を病んだ帰還兵を通し、戦争のリアルを知る

人文社会科学

兵士の視点から見る実態的な戦争研究

 私の専門は歴史学で、近代日本の戦争と医療の社会史を扱っています。1980~90年代以降、軍事史と医学史の双方に社会史の影響を受けた新しい潮流が生まれました。それまでの軍事史研究では、戦争全体に大きな影響力を持った将校などが対象とされていました。しかし1980~90年代以降ではそれと対照的に、末端の兵士というミクロな視点から、戦場の現実や戦争が兵士の心身に及ぼした影響、軍隊と家族・地域社会との関係などについて考察する研究が行われるようになっています。医学史ではそれまで研究の担い手が医師であった事もあり、「医学の発展」を分析するようなものが主流でした。もちろん、医師は医療を構成する一つの重要な要素です。しかし社会史の影響を受け、近年では新たに「患者」という要素が重要視され始めました。
 私が取り扱うのは、戦争による被害を被った兵士を、この医療史における「患者」の観点から捉えるという新たな観点からの研究です。その中の一つの例として、当時「戦争神経症」と呼ばれた心因性の精神疾患を発症した兵士と、彼らを取り巻く社会や文化に関する研究が挙げられます。日中戦争以降精神疾患の専門治療機関となった国府台陸軍病院のカルテなどの資料調査や、当事者の方や、彼らの周囲にいた人々に対してヒアリングを行い、一人一人の患者の経験と彼らをとりまく状況をより重層的に明らかにすることが狙いです。

研究で用いた史料

「戦争とトラウマ」

 「戦争神経症」とされた兵士の中には、戦場や軍隊における過酷な暴力にさらされた結果として精神の不調が発生した人々が多く含まれています。この症状は、のちにベトナム戦争帰還兵の精神的不調や第二波フェミニズム運動によって家庭内暴力が問題視され、1980年に診断名として確立したPTSD(心的外傷後ストレス障害)の先行概念とされています。
 日中戦争以降この戦争神経症が日本軍の中でも取り組むべき課題と認識され、国府台陸軍病院において専門的な治療が行われるようになりました。今回の研究では、その国府台陸軍病院のカルテを調査し、当時の状況を分析しています。これまでの歴史研究ではあまり注目されていませんでしたが、海外の医学史研究ではカルテは重要な史料として扱われています。カルテには患者の医療記録だけではなく、社会文化的な記述も非常に豊富に含まれます。そのため、それぞれの患者が周囲からどう見られていたのか、どのような生活を送っていたのかなどの記述をもとにより重層的な分析が可能となります。
 また、戦争神経症を発症した帰還兵のうち医療機関で治療を受けられなかった人も存在したため、元兵士のご家族の方へのヒアリング調査も行っています。そういった兵士の状況を把握するために、兵士の一番身近にいた家族の視点から、兵士の出兵前後での精神状態の変化を分析しています。それだけではなく、これまでの調査の中では帰還兵による家庭内暴力がなされていたケースも存在しため、兵士個人の負ったトラウマが家族自体に及ぼした影響についても調査しています。この二つの分析をあわせて行うことで、戦争という国家による暴力と、家庭という私的な領域における暴力がどのように重なるのかについて、新たな結果が得られるのではないかと考えています。

2017年に出版した著書、「戦争とトラウマ」の書影

多様な学びから専門分野を深化

今回紹介した研究テーマは学際的な内容のため、これまでの研究においても、精神医学、臨床心理学、文化人類学、社会学、文学など他分野の専門家との議論の中で多くのことを学んできました。また、研究の過程で資料保存の問題にも関心を持つようになり、アーキビストの方々にも非常にお世話になっています。そのため広島大学の人間社会科学研究科でも、分野の垣根をこえたネットワークを築いていきたいと考えています。これから研究の道へ進む学生の方についても、様々な分野において広く関心を持つように意識すると良いと思います。もちろん、研究に対してはある程度の計画性を考慮することは必要ですが、見聞を広めたうえで自身の専門分野を深めていくことができれば、より優れた研究が可能となります。人間社会科学研究科はそのような学びの多様性を育むよい環境だと言えるでしょう。