
すべての学校に「インクルーシブ教育」を普及させる
「特別支援」の壁を取り払う新たな方針
私は音声言語病理学を専門とし、吃音症をはじめとするコミュニケーションに障がいがある人の言語的な特徴の分析や、適切な支援方法の研究を行っています。また、発達障がいなど、学習や生活に困難さを抱える子供たちに対する支援方法の開発にも取り組んでいます。例えば吃音症などにより自分の意志をことばでうまく伝えられない状況は、学習面のみならず、心理面にも影響を及ぼし、時にはいじめやからかいに遭い、自己肯定感が低下し、自殺にまで追い込まれることもあるほど大きな問題へと発展する可能性があります。すべての児童生徒が健やかに成長するためには、適切な知識と実践力を併せ持つ先生や多様性を理解する周囲の存在が必要不可欠なのです。
かつて特別な支援を必要とする児童生徒に対する教育は、今でいう特別支援学校や特別支援学級、通級指導教室で行われていました。しかし近年では、特別支援教育と通常の学級での教育の隔たりをなくそうとする新たな動きが生まれています。「インクルーシブ教育」と呼ばれるこの方針。障がいのある児童生徒のほかにも、性の不一致に悩む児童生徒や、外国籍で日本語によるコミュニケーション能力が十分ではない児童生徒など、さまざまな背景を持つ子供たちそれぞれの個性や多様性を尊重することを目的としています。
現行の小学校・中学校・高等学校学習指導要領解説において、学習に困難さのある児童生徒に対する教科ごとの具体的な合理的配慮例が初めて掲載され、特別支援教育に直接携わらない先生方も、児童生徒のが多様性を考慮した教育方法を取り入れる大きなきっかけとなりました。また、教職課程においては特別支援教育の科目が必修化されるなど、インクルーシブ教育はこれからの教育のスタンダードとして定着しつつあります。
現場に貢献するセンターとして
日本でのインクルーシブ教育はまだ始まったばかり。学校現場では、特別な教育的支援の必要性に対する認知が広まったものの、実際に対応できる先生の数は多くありません。私がセンター長を務める特別支援教育実践センターでは、学習や生活に困難さのある児童生徒が今抱えている課題にアプローチするために、さまざまな活動を行っています。
中心となる活動は、障がいのある子どもに対する教育臨床やその保護者を対象とする教育相談。本学の特別支援教育を専門とする教員が個々の教育的ニーズに応じた支援を行ったり、保護者にヒアリングを行い、子どもの学びを阻害している要因を洗い出して改善方法を提案したりします。この教育臨床・相談は、来談者の許可のもと、本学の学生が参加する場合もあり、特別支援教育の理論知と実践知を併せ持つ人材を育成する場にもなっています。
また、このセンターでは幼稚園・小学校・中学校・高等学校等を訪問し、特別支援教育の観点から先生方へ指導助言を行う巡回相談活動も行っています。この活動では、実際に授業を行う様子を見学した後に、学習等に困難さを抱えている子どもに対する具体的な支援策を提案します。活動を始めた当初は理論や研究の知見に基づいた助言を行っていましたが、日本におけるインクルーシブ教育の認知度が低かったこともあり、なかなか助言を受け入れてもらえませんでした。現在はその反省をもとに、それぞれの先生のこれまでの苦労にできるだけ歩み寄り、その先生にとって実践しやすい方法の提案を心がけています。
地域の教育を支え、世界の教育の未来を考える
このセンターは、特別支援教育に関する高度な実践力を有する教員を養成することを主目的として設立されたものの、当初は教育相談・臨床活動はほとんど行われていませんでした。私が着任後に運営方針を切り替え、教育相談・臨床活動を活性化し、学生が実践に携わることができる環境を整えるとともに、研修活動や研究紀要の定期刊行など、学外へ特別支援教育の知見を還元できるような活動を拡充させてきました。現在は、教科教育、心理学、日本語教育学の知見とインクルーシブ教育の知見をどのように融合させるかに関心があります。特別支援教育の知見に基づいた合理的配慮のみならず、教科教育や心理学、日本語教育の知見に基づく多様性に配慮した実践の在り方についても追究していかなければなりません。学内で異なる専門性を有する研究者との交流を深め、そこから得た知見を広く共有し、それを地域の人々や教育機関に発信することは、インクルーシブ教育をさらに発展させるためにも、大きな意義を持つことでしょう。
また、地域に根差した活動を継続する一方で、国内外のさまざまな研究機関との連携も強化しています。昨年、本学と包括協定を締結した国立特別支援教育総合研究所との合同セミナーを開催し、両機関に所属する研究者が活発な交流を行いました。さらに、中国の長春大学に在籍する視覚障がい・聴覚障がいのある学生との交流やインドネシアの複数の大学との研究コンソーシアムの締結、米国セントクラウド州立大学との交流も行っています。また、インクルーシブ教育を学ぶ留学生の受け入れも積極的に行っています。これまで15ヵ国以上からの学生を指導してきました。修了後は、インクルーシブ教育を牽引する学校教員や大学教員、研究者として活躍しています。インクルーシブ教育の定義は国によってまちまちであり、世界的にも普及の状況は万全とは言えません。多様な機関と連携を図ることで、このセンターが教育の将来像を見据え、新たなインクルーシブ教育の礎を築く存在になることを目指します。
2022.03.31